1975年、八王子に全学移転するにあたり日本医科大学と分かれ「東京薬科大学ハルモニア室内オーケストラ」として独立、翌年の1976年に鈴木行一氏を指揮者として迎え、12月に第1回定期演奏会を行う。
●ハルモニアの公式サイト「ハルモネット」
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http://harmonet.web.fc2.com/top.html
僕が東京薬科大学に入ったのが1978年で、八王子移転後3年目だ(その年の秋の第3回定期演奏会に出た)。
僕が大学1年の時に、大学4年生の先輩が、「東京薬科大学ハルモニア室内オーケストラ」を作ったわけだ。
この年から、日本医科大学から独立して演奏活動を開始した。
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この4年生の人たちの音楽に対する情熱、エネルギーが本当に凄かった、と鈴木さんも当時の顧問の太田先生(元東京薬科大学教授:第2生薬)も話してくれた。
そりゃそうだ、わずか、10人程度のメンバーで定期演奏会をやっちゃうんだから。
並大抵のパワー、情熱ではできない。
僕たちはその4年生の薫陶を受けた。
特にチェロのTさん、クラリネットのNさん、フルートのMさんの3人の男性先輩には大きく影響を受けた。
話をするだけでも、異常にパワーが有った。
この人たちがいなかったら、今のハルモニアは無い。
でも、設立当時はとてもアットホームなクラブで、鈴木さんとの夏合宿は、面倒な(?)パート練習や連絡会議などもなく(と言っても、十数人しかいないので、そもそもパート練習なんてできなかった)、みんなで宴会芸の出し合い、開発に勤しんだそうだ。
どれだけクラシックの名曲でダジャレを作れるか?とかを夏合宿でやっていたらしい。
例えば、ベートーベンの交響曲第3番「エロイカ」→「エロチカ」とか。
スメタナの「わが祖国」→「わがソチン」とか。
「ワーグナー」→「バーギナー」とか。
ほとんど、下ネタだったらしい。
そんなムチャクチャに楽しい合宿だったと鈴木さんと4年生の先輩たちが僕たちに教えてくれた。
僕が1年の時の夏合宿(伊豆の修禅寺)では、しっかりパート練習も有ったし、連絡会、反省会等もあり、合宿の後半に入ると、畳の目が全て「音符」に見えるようになる。
でも、僕たちも伝説を作った。
第1回スプリングを始めたのが僕たちが執行についた3年生の春だった。
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なんと、会場は音響効果など全くなく、どころか、柔道部の気合いが時折聞こえる大学の「体育館」だ。
ステージも、近所の酒屋からビールケースを借りてきて作った。
本当に、手作りのコンサートだった。
この年から、実質1年に2回の定演(春と秋)、となった。
また、近所の小学校で「移動音楽教室」をやった。
当時小学4年生だった男子児童が、このオケに憧れて、10年後に東薬に進み、バイオリンを弾くようになったという逸話も残った。
僕たちが3年の時の第5回演奏会では次の曲を演奏した。
•シベリウス/カレリア組曲
•ワーグナー/ニュルンベルグのマイスタージンガー
•ブラームス/交響曲第四番
この時にコンサートマスター(本当は女性なので「コンサートミストレス」)は髪が長いとても素敵な女性、Iさん(同期)だったが、彼女も数年前に米国で自動車事故で亡くなった。
同期のビオラのトップをやったI君も肺がんで亡くなった。
今年の秋の定演はなんと、『第35回』定期演奏会 である。
鈴木さんの代わりの人は誰になるのだろう?
心配だ。
僕たちも微力ながら、ハルモニアの黎明期に加わったのだ、と勝手に自己満足を言ってみた。
それにしても、30年、あっと言う間だった。
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